2013年5月17日金曜日

論理的になること、そして忘却について。

一橋大学に入って、僕が一番面白いと感じた講義の話をしたい。

……

それは現在受けている、「数理論理学Ⅰ」という講義である。
一般教養科目に分類されている科目だ。
とはいえ、その講義でどんなことを勉強しているのか、具体的に書く訳ではない。

担当する新井紀子先生は、一橋出身の数学者だ。
ご存知のように、一橋は文系の大学なので、「数学者」として活動している彼女は
極めて希少な存在である。
もしかしたら「唯一」と言っていいのかもしれない。

……

僕たちはこの授業で、論理を学ぶ。
具体的には、和文数訳、数文和訳といった作業を通じて、論理的思考を身につける。

たとえば、「4は偶数である」という文を数訳すると、

4∈{n | ∃x (x∈Z ∧ n = 2x )}

となる。
数学記号に造詣の深い人なら、この数文の意味がわかるだろう。

ほかにも、足し算の性質(0を足しても変わらない、交換法則・結合法則がある)を数訳したりする。

……

僕たちが授業に慣れ始めた頃、一度、先生がこんなお話をされた。

「何でこんなことをやるのか?って思うでしょう。」

上で書いたような、和文を数訳するという作業をひたすら行っていた時だ。

「私たちは、自明であることを数文に訳すという、とてもめんどくさい作業をしている。
何でこんなことをしなければいけないのでしょう。」

さあ。何でだろうか。

「いいですか。具体例を挙げるのは簡単です。
例を挙げるのは、誰にだってできます。

最も大事なことは、構造を見抜いて言語化することです。
そして、多くの人にとってこれは難しいことです。
だから構造を見抜ければ、金になります。
どんなに驚くべき現象を目の当たりにしても、その構造を記さなければ、ノーベル賞はもらえません。」

論理的たれ。
彼女はそう言っているように思えた。

……

論理は、人間の偉大な発明物である。

論理なくして科学の発展はあり得なかった。

論理を駆使する、ということは、最も人間的な営みである。

だから、論理的たれ。

……

「今週末デートに行くんだ。」

4限が終わって、大学から帰っているところだった。
僕は、隣を歩く大学の友人Yにそう言った。

「へぇー。誰と?誰と?スタバの人?シンポの人?」

友人Yは、スピッツのように無邪気な奴である。
もちろんスピッツは、ミュージシャンではなくて犬の方だ。

「教えない!」

友人Yには彼氏がいるので、僕は心おきなく(?)そういった話ができる。
そんな友人Yから不意打ちが来た。

「ねえ、そもそもだけどさ、デートってなに?」

最近、質問を受けることが多いなーと思う。女性から。
しかも、答えが一つではない質問。

「待ち合わせをした二人が、一定の時間を共有すること。じゃないかな。」

僕は、僕なりに、これまで体験してきたデートの構造を言語化してみた。
しかし友人Yは不満気である。

「本当にそうかな?」

雨が降ってきたので彼女は傘をさした。
僕は傘を持っていないので、そのまま歩く。

「じゃあ、デートってなに?」

「うーんと、お互いがデートだと感じている時、それがデートになるんじゃない?」

最近、質問を受けることが多いなーと思う。答えが一つではない質問。
そして、相手の答えの方が優れていることが多くて、僕はうんざりするのだ。

「それ、いいね。」

しばらく、無言で歩いた。

「私、今の彼と付き合う前に、何回か彼と遊んだことがあるんだけど。
4回目くらいに、『井の頭公園に行きたい!』って私が言ったら、『それなら公園デートだね』って返されたの。その時初めて、私はデートに行くんだって思った。」

雨はずっと、小雨で降り続いていた。

……

論理的になること。
それは最も人間的な営みである。

しかし、論理的になることで、何か大事なことを忘れていってしまうのかもしれない。

ぼんやりと、そんなことを考えた。



2013年4月26日金曜日

言葉の魔法を操るために


  • 言葉は魔法である

22歳になった、という実感は、唐突にやってきた。

……

僕がバイトをしているスターバックスでは、GABという素晴らしい制度がある。
GABとは簡単に言えばメッセージのことで、素敵な気遣いを仕事中に見せたパートナーに渡したり、
そうでなくても、単純にパートナーにメッセージを伝えたい時に書いて、手渡す。

これを貰うと、無条件に嬉しくなる。

「俊平くん、ポケットに入れておいたGAB見てくれた?」

僕がシフト後にバックルームでのんびりとしていたら、とあるパートナーAにそう言われた。

「うん?見てないよ。」

「うそ!私、ちょっと遅れちゃったけど、誕生日おめでとうってことで俊平くんにGAB書いたのに。
ポケットに入ってるから!」

そして僕は、自分のポケット(パートナーには一人ひとつの小物入れ用ポケットがある)に入っているGABを発見したのである。

これを読むと、やはり、無条件に嬉しくなってしまう。

「ホントだ。わざわざ、ありがとう。嬉しい。」

僕は、思わず本音が出た。

「いえいえ。私がありがとうって思って書いただけだから、気にしなくていいよ。」

いい人だなぁと思った。

『HAPPY BIRTHDAY!!』

短いメッセージは、だから、よく心に響く。

言葉は魔法なんだな、と思った。

  • 大学の講義がつまらないのは当たり前である

今朝方、次のようなツイートを目にした。

「この先生、先生自身が書いてる教科書読んだほうが、先生の講義聴いてるより何倍もわかりやすい。」

どうして、こういうことになるのだろうか。
考えてみれば当たり前のことである。

言葉には、二種類ある。
すなわち、「書く言葉」と「話す言葉」である。

「書く言葉」とは、教科書や小説を書く際に使う言葉のことである。
主に、深く思想するときに使う。
「話す言葉」とは、プレゼンや営業の際に使う言葉のことである。
こちらは主に、伝えるときに使う。
このふたつの言葉は、ベン図的に言えば交わっているところも多少はあるが、実際はかなり違う。

大学の教授は、概ね、「書く言葉」の技術に長けている。
彼の辿ったキャリアを考えれば明らかだろう。
大学である程度「有名な」教授であれば、彼の書く技術はそれなりに高いと言える。
だから、そういった教授が書いた教科書は、わかりやすい。


しかしながら講義では、「話す言葉」を使わなくてはならない。
「書く言葉」の技術に長けている人が、「話す言葉」の技術も同様であるとは限らない。
むしろ大学教授の場合は、極端に下手なケースの方が多い。

教授の話を聴いていてさっぱりわからないのは、
彼が「書く言葉」でそのまま話をしてしまっているか、あるいは、
彼が「書く言葉」で書いた内容を「話す言葉」に上手く言語化できていないからである。

だから、大学の講義は、「つまらなく聴こえてしまう」ものが必然的に多くなる。

  • 話が上手な教授の講義ほど、実は落とし穴がある

このように考えると、「聴いていて面白い講義」は、次の2つに分類できる。すなわち、

a, 教授が「書く言葉」と「話す言葉」の両技術を身につけており、かつ内容が興味深いケース
b, 教授が「話す言葉」だけに優れており、実際は実のない講義をしているケース

aは万々歳である。面白い上に、確かな教養が身につく。
注意したいのはbのケースである。
教授の話は立板に水で、次から次へと言葉が出てくる。
しかし、話が面白いが故に、内容の浅さに気がつけない。
内容は、新書の序章くらいのものであるのに、うまく誤魔化されている。

大学で学ぶ学問は、そんなに簡単ではない。
教授の言っていることがとても分かりやすいのだとすれば、bのケースも疑った方がいい。
高校とはまるっきり、内容が違うのだ。

  • プレゼン偏重の危険性

現代は、あらゆる場面で、プレゼンが偏重されているように思う。
しかし、「プレゼンが上手い」というのは危うい技術である
プレゼンは、前述の通り、「話す言葉」に特化した技術だからである。

弁論術の時代から、プレゼンの上手い人が常にリーダーとなってきた。
豊臣秀吉然り、ヒットラー然り…。

そして現在、オバマ大統領やジョブズ(どちらもアメリカなんだなあ)のおかげで、また、
プレゼンの重要性が巷を賑わすようになった。

日本で言えば、橋下徹さんなんかが上手いプレゼンの代表者だろう。

しかしながら、プレゼンは、「話す言葉」である。
「書く言葉」とは一線を画す。

彼らのような上手いプレゼンをする人間に対して、我々は、しっかりと判断をしないといけない。

「こいつの言ってることは胸に響くけど、本当に正しいのだろうか…?」とね。

もちろん、プレゼンの技術は必要ない、と言っている訳ではない。
言うまでもなく、大事だ。そして、大事になってくる。

だからこそ、である。
プレゼンの上手い人に対して、我々はクリティカルな視線を与え続けなくてはならない。

(余談ですが、ビジコンとかも、優勝するのは「話す言葉」がうまい人が多いですよね…)

  • 手紙は「話す言葉」で書く

それでも、「話す言葉」はやはり大事な技術である。

今までの議論を振り返ると、例えば、手紙の特殊性に僕らは気づくだろう。

手紙は、「話す言葉」を使って書かれているのだ。
このような倒錯は、ほかにあまり例がない。
手紙が心に響くのは、書いた人間が、「話す言葉」で伝えようとしているからである。


自分の言葉が伝わらない、と感じるとき、あなたは「書く言葉」で話していないだろうか。
誰かに対して怒りの長文メールを送ったとき。
別れたいと切り出す恋人に、グチグチと文句を言うとき。
営業で、マニュアル通りにペラペラ喋っているとき。

「書く言葉」では伝わらないのだ。
ちゃんと伝えたいときこそ、一旦思考をリフレッシュして、「話す言葉」で整理してみるのだ。
それこそ、大好きな人に手紙を書くように。

……

僕は、圧倒的に、「書く言葉」の方が得意な人間だ。

22歳になって、そして、「話す言葉」もしっかりと身につけたいな、と思ったのだった。



2013年1月11日金曜日

僕たちが生きるたったひとつの理由

目が覚めた。
明るい白色光が目にうるさい。
と同時に、ため息をついた。部屋が汚かったのだ。

部屋の綺麗さは、頭がどれほど整理されているかと比例する。
つまり、僕の頭は整頓されいないように思えた。

「片付けるか…」

重い体を持ち上げた。
とりあえず、タンブラーに入った冷めたコーヒーを飲む。
今日、国立のスターバックスで買ったものだ。冷めていても、うまい。
そして、ジョンコルトレーンを静かにかけた。

時計に目をやると、夜の11時であることがわかった。
アイフォンは、先程から絶えず着信で震えている。
LINEというアプリから送られてくるものだ。
年末に行ったディスカッションイベントの、グループのLINEが荒れていた。
目を通すが、単純にみんな寂しいからそこに呟いているように思えた。
祭りの終焉がみな寂しいのだ。

僕は、と思う。
僕は掃除をしなくては。

……

掃除をしながら、ブログを書こう、と思った。

そこに特別な因果関係はなかった。
ただ、何かが書きたい、と思った。

年末、ディスカッションイベントがあったと上に書いた。
12月27日から29日にかけて、それは行われた。
メンバーは1年間かけて(僕の場合は半年間をかけて)それを準備してきた。
贔屓目に見ずとも、いいイベントとなった。
議論をした。共感した。ぶつかった。仲間に出会った。
そういう空間だった。
僕も充実している、と思った。

イベントが終わって、メンバーの半数近くは、某ソーシャルネットワークサービスに書き込みをした。
イベントの充実度と、仲間とやり遂げた感動を表したものだった。

そして、僕も真似して書こうと思い、やめた。

……

別に、僕はそういう人たちから一線を画した自分を演じたかったわけではない。
むしろそういう人は好きだ。

書かなかった理由がある。

僕は、混乱していた。
あまりうまく説明できないのだけど、僕は混乱していた。

つまり、そういうことに意味が感じられなかった。
「そういうこと」の定義は各々で考えてもらっていい。

「そういうことをする」、
それにどのような意味があるのか分からず、僕は混乱していた。

話を大きくしよう。

僕はなぜ生きているのか、イマイチ分からなかった。

結局そういうことだと思う。

……

正月、実家に帰った。藤沢市の実家だ。

紅白を見ながら年を越して、僕は2013年を迎えた。
緑茶で割った焼酎がうまかった。
家族みんな寝てからも、僕は一人でテレビを見ていた。
なんとなく、寝るのが怖かった。

ツイッターでは、いろんな人間が「あけましておめでとう」と言っていた。
それはある意味奇妙で、ある意味自然な光景だった。
そういう時代になったのだ、と思った。

……

1月2日。
僕は友人Nと初詣に鎌倉へ行った。

鶴岡八幡宮は人でごった返していた。
参拝は潔く諦めた。
それで、しばらく鎌倉巡りをした。

「ねぇ、いつも願い事っていくつするの。」

唐突に、Nが僕に尋ねた。

「どういう意味?」

「お賽銭入れて、お願い事するでしょ、その時にいくつお願い事するの。」

僕は考えた。
あまり考えたことがなかったから、考えた。
結論から言うと、わからなかった。
1つの時もあれば、幼い時は5つくらいお願いした気もする。

「わからない、決まっていないかもしれない。」

と僕は言った。冴えない答えだな、と思った。

「私は3つするの。」とNは言う。

「理由はないんだけどね、私は3つお願い事をするの。
だけど最初からそう決めていた訳じゃなくて、気がついたら、いつも3つのお願い事している自分に気づいた。
みんなそういうのって決めてるのかなあって思って聞いちゃった。」

全部聞いてから、僕は2つの意味で頷いた。

「理由はないんだけどね」という言葉が、暖炉の残り火のように胸に残った。

……

それから江ノ島の方へ向かった。
パンケーキを食べるためだった。
僕たちは、特別な理由もなく、巨大なパンケーキを食べようとしていた。
ハワイから日本に進出してきた、人気店舗のものだ。

予想に反し、パンケーキ屋は空いていた。
夜19時という時間帯と、強すぎる風がその理由のように思われた。
入店して10分ほどで席に座ることができた。

出てきたのは、パンケーキ7枚と、とてつもなく盛られたクリームだった。
「これでもかっ」というシェフの姿が目に浮かんだ。
何かを象徴しているような気がしたし、ただでかいだけ、という印象も持った。

一緒に頼んだフライドポテトも、とにかく量が多かった。

「すべてアメリカンだねぇ。」

Nは、かなり食べる方の人間だったが、その量に面食らっているようだった。

僕たちはパンケーキを食べた。
貪るように、パンケーキを食べた。

……

途中から、何と戦っているんだろう、と思った。

美味しいという次元を通り越して、とにかく戦っていた。
目の前の山を崩さなくては。
そういう思いだった。

何かに似ているな、と思った。

そうか。

「ねぇ、パンケーキの戦略ってさ、ラーメン二郎に似ていない?」

Nはひとしきり笑ってから、言った。

「そういうことは言っちゃダメだよ。」

そしてクリームの乗った最後の一枚を、僕に寄越した。

……

僕たちは、何と戦っているんだろうか。

何で生きているんだろうか。

そういう疑問って、感受性の高い人間が受け持つものだけれど、多かれ少なかれ誰しも思うものだ。

でも、果たして答えってあるのだろうか。

……

ディスカッション団体は、(たしか)11の分科会に分かれていた。
分科会というのは、議論するテーマで区切られた箱のことだ。
僕は「開発」分科会の一員だった。

「開発」っていうのは、開発援助のことだ。
アフリカの飢餓とか、ODAとか、そういう単語を思い浮かべてもらえればいい。

半年間やってわかったことと言えば、開発には答えがないということだ。

もちろん、個別の知識が付いたわけだし、議論では問題に対してある程度の結論を提示することもできる。
ただ一貫して、「これってキリがないなぁ」という思いを抱いた。
連綿と続く疑問。
それらを全て解決したところで、答えは伸ばした手の先にある。
キリがなかった。
深い海の底にいる気がした。

分科会のメンバーの一人に、少し洩らしたことがあった。
すなわち、開発って答えがないんじゃないだろうか、高々大学生という身分の僕たちが議論することに、本当に意味があるのだろうか、という方向だった。

僕の質問を受けた彼女は、しかし、はっきりと答えた。

「絶対に意味はあると思う。
まず第一に、知ることができる。
シンポジウムという場がなかったら、開発の問題を知り得ない人もたくさんいる。
そういう人たちが知って、議論をすることは、絶対に大きな意味がある。」

その答えは、僕を海の底から救い出した。
一方で、大海原でボートに一人、取り残された心境にもなった。

……

イベントが終わった日。
開発分科会は、参加者を合わせた15人ほどで飲み会をした。
僕は疲れていた。
それは体力的な意味だ。
2泊3日のイベントを通し、体力的に限界にきていた。
ゆえにアルコールがすぐに回った。

「菊池さんって普段どんなこと考えているんですか?」

考えるのが好きだ、という趣旨のことを言ったら、参加者の一人にそう聞かれた。

「最近は、『人はなぜ生きるのか』というのが大きな命題です。」

おおーという声が酒席に広がる。
僕は気分をよくした。

「でもね、人はなぜ生きるのか、これは答えがないと思うんですよ。
あと最近気づいたことがあります。
それは、生きる目的というものが存在した場合、人は、生きる目的がなくなってしまうのではないかということです。逆説的ではありますが。」

僕は、酔っていた。
しかし頭は正常だった。

……

大きなパンケーキを目の前にして、僕たちは興奮する。

ホイップクリームに食欲が刺激され、それを食べたいと思う。

フォークとナイフを手に取る。

一枚のパンケーキを皿に取り寄せ、食べる。

味わう。美味しいと思う。


途中から、やや混乱してくる。

量が多すぎる、と。

こんなはずではなかった、と。

でも私たちは、食べなくてはいけない。

注文した以上、それを食べきることは、最低限の作業だ。理由はない。


きっと、生きるっていうのも、そういうリズムなのではなかろうか。

この世界に生まれた。

その後の人生に目を輝かす。

楽しいことや、辛いことを経験する。

途中ではたと疑問に思う。

『なぜ生きるのか』

でも生きるのだ。理由はなくとも。

……

この世界は、感受性の高い人間にとって少々生きづらい。

でも、それは仕方がないことだ。

大事なのは、答えのない問題がこの世界には存在する、そしてその数はけっこう多いということだ。

それを認識していれば、いいのだと思う。

……

パンケーキを食べてから、僕らは龍光寺へ行った。
江ノ電の片瀬江ノ島駅の裏側あたりに、そのお寺はあった。
夜の8時だった。

僕ら以外、誰も人はいなかった。
だから境内はシンとしていて、より一層趣が感じられた。
寒さはあまりなかった。

ひとつ、困ったことが生じた。
時間が遅すぎるため、お賽銭箱がないのだ。

「まあいっか」

僕たちは、財布からお金を取り出し、本来それが放り込まれるべき場所へ、そっと置いた。

そこにはすでに10円玉が1枚置かれていた。
おそらく同じ境遇の人物が、同じ理由で持て余して置いたお金だと思われた。

二礼二拍手、一礼。

僕らは、理由もなく、それぞれ3つのお願い事をした。


end

……………………………


追伸。

あけましておめでとうございます。
最近ブログを書く理由がわからなくなっていたのだけど笑、ブログはこれからも細々と書いていきます。
続けているのは読者のみなさんのおかげです。

僕は、人気ブロガーではないです。そして、これからもそれは目指しません。けれど、ブログは書きます。

インターネットは、いろんな意味でたかが知れていると思っています。
本当のことは載っていません。というか、書けません。

ブログで人気記事としてツイッターとかで流れてくるものには、2通りあります。


a, 単純なエンターテインメント

b, 大衆を啓発したい、しかしブログという形式に乗っ取らなくてはならない


aは文字通り。
bは、説明が難しいのですが、文面から伝わってくる。迎合の感が。

aもbも、僕は書きたくないな、と思いました。


けれどこのツールが僕は好きです。だから、人気記事とならないようなものを書く、と言っているのです。

僕の文章が好きだという方は、これからも応援してください。
読んでもあまり意味はないかもしれない。けれど、小さな気づきを与えることができればなあ、とは思っています。

ちなみに、最後になりましたが、タイトルはアンチテーゼです。



菊池俊平